どうも、こんにちは!路上役者亮佑です!
路上に立っていると、批判を浴びることは日常茶飯事です。
「下手くそ」「つまんない」「ダメだな」
少し考えただけでも、恐ろしい空気になった数々の瞬間が思い出されて、背筋が伸びます。。
(↓めっちゃダメ出しされた日。まるで顔にスベったと書いてあるみたいだ。)
まだ路上を始めたてで、スベりまくってた時期のSNSの投稿を見返すと、今でもトラウマが甦ってきそうだ。
色んなことを言われ、その度に傷つき、深く悩んでいました。
でもそれから2年経ち、今では批判ともうまく戦えるようになってきました。
なので今日は、そんなココロが激弱、豆腐メンタルな僕が、批判の嵐とどう戦ってきたかを書いていきたいと思います!
〜目次〜
【最初はフルシカトでいい】
批判に心を乱されまくっていた僕が至った一つの結論がこれです。
フルシカト。
批判には2種類の批判があります。
的を射た批判と的外れな批判。
「どんな批判でも自分の成長の糧となる」と、言ったりしますよね。
その言葉は真実だし、その通りだと僕も思います。
しかし、待て!俺らは豆腐メンタルだ!
「どんな批判も一度全て受け入れて、その後に実行に移すかの取捨選択をする」というのは、気高く立派で、正しい考え方のように聞こえますが、僕から言わせればそんなの綺麗事だ。
めちゃくちゃ難しい。
それが的を射ているか否かの判断はかなりの高等技術を要する。
だから最初はそんな綺麗事をフルシカトすると同時に、批判もフルシカトでいいのです。
[批判に正解・不正解はない]
他人の批判を受け入れるということは、他人の意見を受け入れるということです。
100人いたら100通りの意見があるわけで、そこに正解・不正解なんてものはなく、全員が”自分にとっての正解”を持っているわけです。
具体的に言えば、さっきの人には「テンポがいい」と言われたのに、次の人には「間が長い」と言われることもある。
正反対の意見も当然ある。
その中でも自分の意見で押し通すのか。
多少の妥協をして、少しでも多くの人に伝わるよう最大公約数的な部分を探すのか。
これは、表現者の終わりなき戦いだと思います。
批判を受け入れるかどうかは、正解・不正解がないからこそ難しいことなんですよね。
[最初から求めすぎない]
表現者というのは、
①自分のやりたい表現を
②他人に伝える
職業です。
この二つを両立させるのは、たとえどんな一線級の表現者でも、常に失敗と隣り合わせであり、永遠に解決することのない課題なんじゃないかと思います。
最初から批判を受け入れるということは、最初から両方に手を付けるということです。
ちょっと求めすぎじゃありませんか?
やはり最初から両方を狙いに行くのは、ハードルが高すぎると僕は思います。
さらに、僕らは豆腐メンタルときた。
豆腐メンタル最大の弱点は、批判に傷つき、深く悩んだ結果、全てのやる気がなくなることです。
これが一番いけない。
たった一つの批判で、自分の全てが悪いと思い込んでしまう。
僕はクソ単純なヤツなので、一つ褒められたら自分が完璧な人間に思えてくるし、逆に一つけなされただけで自分に長所なんて何一つないぐらいに自分を否定してしまいます。
でも人間、一つの賞賛より一つの批判のほうが心に残るものですよね。
一つの「面白い」より、一つの「つまんない」のほうが、心に与えるインパクトが強い。
豆腐メンタルだったら、なおさらです。
批判を受けるたびに落ち込み、やる気がなくなる。
そうなると、上手くなるための練習や努力を怠ってしまう。
「他人に伝える」ことを意識し、意見を受け入れようとすることで、逆に「他人に伝える」ための努力ができなくなる。
まさに本末転倒。
僕はそんなことを繰り返した結果、「こんな風に努力できなくなってしまうぐらいなら、いっそ批判なんてシカトしたほうがいいんじゃないか」と思うようになりました。
”豆腐メンタルの開き直り”です。
最初は①自分のやりたい表現、これだけを磨き続け、余裕ができてきたら②他人に伝える、ということを意識していく。
最初からより多くの人に分かってもらおうというのも、ある意味傲慢なことです。
そんな上手くいくわけないし、出来るわけない。
だったら他人の批判なんて完全に無視して、自分のできることだけに集中したほうがよっぽどいい。
これが、僕が批判はフルシカトしたほうがいいと感じた理由です。
【批判を受け入れる時は、どこかで必ずやってくる】
僕はそうやって批判をフルシカトして、ずっとやってきました。
批判なんて聞き入れる心の余裕がなかったんです。
でも最近になって、少し気持ちが変わってきました。
他人の批判も聞き入れるようになったのです。
それは「いつかは批判も受け入れるようにならなければいけない」と思っていたからではありません。
勝手にタイミングがやってきたんです。
ずっと批判に耳を貸さずに、自分一人でできることを淡々とやってきました。
でも最近になって、それがつまんなくなってきたんです。
たぶん僕は一人で成長する限界を迎えたんだと思います。
このまま同じことを続けてても、成長できないんじゃないかと思い始めたのです。
そして、具体的な転機としては、路上で見てくれた人にケチョンケチョンに批判されるということがありました。
《その時のブログ》
「これ同情の1000円だからな?」と言われて死ぬほど悔しかった話
たぶん以前の僕だったら、全く聞く耳を持っていなかったでしょう。
でも、その時は違いました。
ちょうど最近の自分に自信が持てず、成長が停滞していたとき。
それは僕にとって、「これからは他人の意見にも耳を貸していきなさい」という神のお告げのように聞こえました。
人生って不思議ですよね。
ピッタリのタイミングで、ピッタリの出来事が起こる。
手厳しいことをズバズバ言われたので、その時は感情的になることもありましたが、これは「これからは批判を受け入れていこう」と、考え方を変える大きな転機となりました。
【まとめ】
人は、徐々に変化していくもの。
同時に、徐々に成長していくものです。
以前はフルシカトしていた批判を、今では受け入れている。
考え方としてはブレブレですが、僕は一つ階段を上ったと前向きに捉えています。
他人の意見を聞くというのは、自分の成長に不可欠なものです。
でも僕は、その意見を聞けるようになるまで2年かかりました。
たしかに、最初から聞き入れていれば、もっと成長できていたかもしれない。
でも逆に、最初から聞いていたら、心が持たずに2年も続けていられなかったかもしれません。
批判を聞かなかったことにより、他人に伝えるという”技術”の成長は鈍ったかもしれない。
でもいまようやく他人の厳しい批判も聞けるようになった。
これは僕にとって”心”の成長です。
相変わらずの豆腐メンタルには変わりはありませんが、絹から木綿くらいにはなったということでしょうか。
間違いなく言えることは、僕に最初から他人の批判を受け入れるという選択はできなかった。
「他人の批判は全て、自分の成長の糧になる」なんて、格言みたいに言われてますが、そんな綺麗事シカトしましょう。
自分のペースで、自分がやりたいように、少しずつ進んでいけばいい。
「こうあるべき」という世にはびこっている綺麗事が正しいなんて限らない。
そんな他人が作った戯言は無視して、自分なりに批判と付き合っていきましょう!
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