心に浮かんだ時点の言葉というのは、まだ濁ってるんだと思う。
7月21日、秋葉原。
僕は、いつものように、路上でひとり芝居をしていました。
「ひとり芝居観ていきませんか!」
と、秋葉原の駅前を通る人という人に、片っぱしから声をかけていると、30歳前後の男性サラリーマン3名が通りがかりました。
そのうちの1人が興味を持ってくれたのか、近づいてきて「何やってんの?」と声をかけてきました。
「ひとり芝居です!よかったら観ていきませんか?」
と返すと、半笑いで
「時間の無駄だから見ません!」と言い、立ち去っていきました。
僕は、追いかけていって、その人の胸ぐらを掴み、
「なんだお前、コノヤロウ!観てもいないのに、時間の無駄とはどういうことや!」
と、言いそうになりましたが、淡々と路上を続けました。
とても悔しかったです。
観てもいないのに「時間の無駄」と判断されるのは、かなり悔しい。
僕は、僕なりの覚悟を持って芝居をしているし、覚悟を持って路上に立っている。
自分が全てを懸けて取り組んでいるものを、「時間の無駄」と足蹴にされることは、我慢ならないほど腹立たしい。
そもそも「時間の無駄」と思うのなら、「何やってんの?」と声をかける必要はないし、断る理由として、時間の無駄だからとわざわざ告げる必要もない。
何も言わずに立ち去ってくれたほうが、何倍もいい。
その翌日の恵比寿。
若い男女の軍団が、
「お!なんか変なことやってんぞ!」
と、僕を見て、言っていた。
さらにその翌日の経堂駅では、2人組で歩いていた若い女性のうち1人が、僕のほうを見ていた。
興味があるのかと思い、声をかけようとすると、別の1人が僕を指差しながら、
「あれ、観ないですよね?(笑)」
と、冷ややかな笑みを浮かべながら、言っていた。
これは完全な僕の主観であり、肌感ですが、最近「言わなくていいことを口に出す人」が、増えたと思う。
秋葉原のサラリーマンもそうだし、恵比寿の若者軍団もそうだし、経堂の女性もそう。
彼らにしてみれば、おそらく「思ったことをそのまま口に出しただけ」で、悪意はないのかもしれない。(秋葉のリーマンは悪意あるな!)
「時間の無駄」
「変なことやってる」
「あれ、観ないよね?(笑)」
僕にとっては、全ての言葉が口に出して欲しくない言葉で、何のポジティブな影響もなく、マイナスしかない言葉たち。
「思うことは仕方ない。でも、思っとけ。口には出すな」
と、言いたい。
しかし、彼らにとっては、それで隣にいる友達のひと笑いが取れれば、満足なのだろう。
初めて会った知らん奴よりも、いま一緒にいる仲良い友達を優先するのは、当然だと思う。
でも、いい踏み台として扱われた僕は、そのマイナスの言葉たちを自分で消化するしかない。
言葉は誰でも無尽蔵に生み出せる。
さらにいまは、手軽に自分の言葉や意見を、世界に発信できるようになった。
でも、誹謗中傷のように、言わなくていいことをわざわざ発信してしまう人もたくさんいる。
相手を不快にさせたり傷つけたりすることには目もくれず、自分のコミュニティや自分だけが満足する言葉たちがたくさん吐かれてる。
SNSでは、「誰でも手軽に価値のある発信ができる」メリットより、「誰でも手軽に価値のない発信もできる」デメリットの方が大きいように見える。
価値のない発信のほとんどは、心に浮かんだ文字が、そのまま吐き出された言葉だと思う。
考え抜かれた言葉や意見というのは、洗練されていて美しい。
「考える」というフィルターを通したからこそ、言葉は美しく洗練され、多くの人の心を動かす。
でも、心に浮かんだ時点の言葉というのは、まだ濁ってるんだと思う。
だから、心に浮かんだ言葉をそのまま吐くと、相手を不快にさせたり、傷つけてしまったりする。
誰でも手軽に発信できる世の中になったからこそ、手軽に発信をしない、考えた末に何も言わないという選択をすることも、意見を言うことと同じくらいに、大事にしたいと思う。
路上役者亮佑のTwitter→路上役者亮佑 | Twitter
路上役者亮佑のFacebook→路上役者亮佑 | Facebook
路上役者亮佑のInstagram→路上役者亮佑 | Instagram