役者をやっていると、よくこんなことを言われます。
「役者なんだから、ウソつくの上手いんでしょ?」
たしかに、「いまの芝居っぽいなぁ〜」
「なんか演技してる感じするんだよね〜」
と、芝居や演技という言葉は、何かと「ウソ」の代名詞として使われます。
でも僕は、その度に残念な気持ちになります。
だって、僕の中では絶対に、
「役者はウソをつくプロ」ではないからです。
〜目次〜
【僕らは毎日「上手にウソをつく練習」をしているわけじゃない】
僕は毎日欠かさず、お芝居の練習をしています。
毎日、お芝居のことを考えています。
他の役者さんも、同じです。
稽古をしたり、レッスンを受けたり、ワークショップに行ったり、
必死にお芝居の勉強をしています。
もし、芝居がウソなのだとしたら。
僕らは、毎日必死になって「上手なウソのつき方」を学び、
「いかに、巧みにヒトを騙すか」を考えていることになります。
あまりにも、寂しい。
「上手にウソをつき、巧みに騙す」
ここだけ聞けば、完全に詐欺グループと同じですね。
【あなたは、ウソに感動しない】
素晴らしいドラマや映画は、たくさんあります。
劇場に芝居を見に行ったことがない人でも、
ドラマや映画に感動した経験は、きっとあるはずです。
もし、芝居がウソなのだとしたら。
映画に感動したあなたは、
「上手に騙された」ことになります。
「巧みに丸め込まれた」ことになります。
「『タイタニック』のディカプリオは、本当に上手くウソをついているよね」
「『おっさんずラブ』の吉田鋼太郎には、本当に巧く騙されたよ」
あまりにも、寂しくないですか。
きっと、誰でも、必死になって否定するはずです。
だけど人間って、不思議なことに、
その言葉が心から出た本音なのか、ウソから出た戯言なのか、分かってしまうんですよね。
下手な役者の演技には誰も感動しないように。
人間は、ウソに感動することはないんです。
【役者は「真実を創り出すプロ」】
役者は「ウソをつくプロ」ではなく、
「真実を創り出すプロ」だと、僕は思っています。
「無いものをあるように、あるものを無いように」
演じるのがお芝居です。
ディカプリオは死んでないのに、死んだように見えるし、
目の前にカメラはあるのに、無いように見えます。
役者は、「いかに上手くウソをつくか」ではなく、
「いかに、真実ではないことを真実にするか」を目指して、日々鍛錬を積んでいます。
「どのくらい"真実"に近いかどうか」
が、上手い役者かそうでないかを測るバロメーターだと、僕は思っています。
「僕は、ついに演技を極めましたね」
と、言っているベテラン役者がいないように、
そして、物事に完璧という状態が存在しないように、
100%真実を創り出すことはできないでしょう。
でも、近づけることはできる。
僕らが"ウソ"で塗り固められているはずのお芝居に感動するのは、
それが"上手なウソ"だからではなく、"本当に起こっている真実"に見えるからです。
上手い役者は、真実に限りなく近く、
下手な役者は、真実からはほど遠い。
僕ら未熟役者に求められていることは、真実の濃度を上げていくことで、
ウソの精度を上げていくことではない。
だからこそ僕は、役者こそ「どうしようもない大ホラ吹き」ではなく、
「ドがつくほどの正直者」でなければいけないと思っています。
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